環境福祉学講座(157) 林業の歴史からみる環境福祉(10) 苦闘する自然公園行政
体力向上に重点を置いた国立公園
これまで述べてきたように、戦後の林野庁の政策は長い間、林業の生産拡大一辺倒だった。国有林経営については、特別会計方式(独立採算制)が取られたので、一般会計からの赤字補填は行われなかった。
収益に直結しない森林の公益的機能の維持には、一般会計からの補填が不可欠である。スウェーデン、フランス、イギリスも特別会計方式であるが、借入金利子や不足分は一般会計から補填されていた。
このような財政事情にあった国有林は、成長量が悪く、経済性が劣る広葉樹天然林を伐採し、成長が早いスギ、ヒノキなどの人工林に切り替えていった。こうした伐採が奥地林まで進められたため、各地で大きな環境破壊が生じた。これは1998年(平成10年)に国有林野事業改革関連2法が制定され、一般会計からの繰り入れが認められ、生産重視から公益機能重視に転換するまで続いた。
戦後長く続けられた国有林の大規模な伐採による環境破壊に対し、環境サイドから戦った最大の勢力は自然公園行政であった。根拠になったのは自然公園法である。
日本の自然公園は1873年(明治6年)の太政官布告に基づく松島公園等の設置に始まり、1931年(昭和6年)に国立公園法が制定された。所管は内務省衛生局保健課だったことから分かるように、国民の健康増進が大きな目的であった。1938年(昭和13年)の厚生省の新設により、国立公園法の所管は厚生省体力局施設課に移った。この頃すでに日中戦争が始まり、戦時体制に入っていたので、自然公園は国民の心身の鍛錬に貢献するという機能が重視された。
国立公園法の制定を推進した当時の先覚的な公園技官は、日本の優れた風景を保全し、長く国民が享受できることを主目的としたこととは微妙な差異がある。時代の影響が濃厚に出ている。
風景地の保護を目的に明示
戦後、国立公園法は1957年(昭和32年)に自然公園法へ全面改正されたが、自然公園の目的は、第1条に「優れた自然の風景地を保護するとともに、その利用の増進を図ることにより、国民の保健、休養及び教化に資すること」と規定された。この考え方は、1931年(昭和6年)に国立公園法が提案された時に、厚生大臣が議会での提案理由で説明した通りであるが、風景地保護が法律でも明確に打ち出された。しかし、生態学の見地から自然環境を保全するという考え方は、いまだ存在していない。
自然公園には国立公園、国定公園、都道府県立自然公園があるが、区分に応じ国、都道府県によって管理される。景観を維持するため木竹の伐採などが厳しく規制され、定められた行為を実施する場合は厚生大臣(現在は環境大臣)や都道府県知事の許可を受けなければならない。
私は1978年(昭和53年)から1980年(昭和55年)まで福井県に出向し、自然保護課長として第一線の実務を担当した。その中で森林の伐採を巡って激しい戦いを経験することになる。県内には1つの国立公園、2つの国定公園があったが、その中には山林が多かったので、樹木の伐採許可申請がたくさん出された。
大きな案件は事業者からあらかじめ課に相談があった。当時の環境庁によって審査要領を示され、開発行為ごとに具体的に詳細な許可要件が示されていたので、これに基づいて指導した。
「環境庁の方針でこの地区で皆伐はできません」と話すが、事業者は、「金が必要だ。自分の木を切るだけだ」とけんか腰になる。「国定公園の風景を守るため」と説明しても、説得力はなかった。風景の評価は主観的な要素が強いので、相手が素直に納得しない。
自然保護行政を担当して、つくづく当時のその無力さを味わった。自然保護の観点からの主張を貫き通せず、妥協を余儀なくされることが多かった。
その理由は、第1に自然保護に対する住民の支持がなかったことだ。当時の福井県はまだまだ開発優先だった。風景で飯が食えるか、サルやイノシシは農作物被害をもたらすと、自然保護行政への反発が圧倒的だった。応援してくれる人はバードウオッチャーや登山愛好家などほんの少数だった。事業者に強い指導をすると、地元の有力者から電話が入った。
第2は、自然保護行政の県政におけるウエートが低かったことだ。職員は10名程度で予算も少なかった。これに対し林務課は職員や予算の規模が比較にならない。林業試験所を始め出先機関も多かった。林野庁から出向していた林務課長の自然保護課を見下した横柄な態度は忘れられない。
第3は、これが今回強調したかったことだが、自然公園の目的が「風景地の保護」に置かれていたことである。これでは環境を破壊する林業に対抗できない。もちろん風景地の保護は大切だが、環境破壊に正面から対抗するためには、生態学を根拠にした環境保全という大義が必要だった。
恩賜財団済生会理事長 富山国際大学客員教授 炭谷 茂
