環境福祉学講座(171) 漁業の歴史からみる環境福祉(7) 森林が支える漁業
昔からの森林の活用
昭和53年(1978年)4月から2年間、福井県自然保護課長を務めた。30歳を過ぎたばかりの若さで、課員の過半数は、私よりもかなりの年配だったが、みんな親切に対応してくれた。
そのうちの一人に、野鳥保護では全国的に名の知れた林武雄さんという40歳代半ばの課長補佐がいた。10歳頃に町内で不審火が発生し、その原因が「ヒドリ」という鳥の仕業だと騒がれた事件を経験して、野鳥に関心を抱いたという。
その後、絶滅危惧種に指定されているコウノトリが57年に福井県武生市(現越前市)で発見された際は、保護活動に尽力するなど、野鳥保護では県内の第一人者だった。私のような書籍から学ぶ人間と違って、実践一筋でたたき上げを絵に描いたような職人肌の人だった。でも林さんは、イロハから鳥獣保護行政について教えてくれた。
ある時、私は「鳥獣保護法第1条に鳥獣保護が農林水産業の健全な発展に寄与すると規定されているが、水産業では具体的に何か」と林さんに質したところ、鳥たちによって昔から漁師は魚群の存在を知ったと話してくれた。確かにソーラン節にもニシンの動きをカモメに問うとあるように、漁師はカモメに漁のガイド役を期待した。漁業と鳥は関係がある。
同様に、漁業と森は密接な関係があることが広く知られている。
森林法では森林の公益的機能を十全に発揮するため、17種類の保安林の指定が行われているが、その一つに「魚つき保安林」がある。「魚つき保安林」は魚群誘致のため、海岸・湖岸・河岸に育成した森林で、日本独自の保安林区分である。
全保安林の延べ面積は、2023年3月31日現在で1303万ヘクタールであるが、そのうち、魚つき保安林は6万ヘクタールで0・5%を占めるにとどまる。
森林の影が水面に映ると、魚が集まることが昔から知られており、これが「魚つき」と呼ばれ、優れた漁場となっていた。
「魚つき」という言葉は、すでに10世紀半ばの天暦年間の文献に登場し、江戸時代では小魚陰林、魚箸山、魚寄林、網代呂山、海辺魚附山などいろいろな名前で言われていた。これらの林は、広く各藩で禁伐など保護政策がとられていた。
そのなかで、小田原藩が管理した真鶴半島の「お林」が知られている。江戸で発生した明暦の大火によって木材が大量に必要になったことから、幕府の命令を受けて、小田原藩は1661年から3年間かけて15万本の松苗を植林し、立入禁止として育ててきた。
明治維新以後は皇室の御料林として一般の人の立ち入りが禁止された。「お林」は、明治37年(1904年)に森林法が制定され、保安林制度が定められると、「お林」は魚つき保安林に指定され、保護されてきた。
「お林」が真鶴半島周囲の海と一体となって豊かな生態系を維持している。「お林」は、クロマツが崖から海にせり出し、海に作る影が魚を守り、産卵や生育の場を提供してきたと、地元の漁師は考えてきた。現在でも、漁師は沿岸漁業を守るため、クロマツの植林活動をしている。
吉武孝の『魚つき保安林の研究史と現状』(水利科学No.326)によると、幕末から明治への移行期は、それまで各藩が管理していた沿岸部の魚つき林の管理体制が崩れたため、海岸林の無秩序な森林伐採が横行した時期があった。明治14年(1881年)に兵庫県淡路島では沿岸の森林が伐採され、荒廃した後、沿岸での漁獲が激減して住民の生活が困窮した。住民は沿岸の魚つき林の重要性を認識したという。
明治44年(1911年)に、農商務省水産局による「漁業ト森林トノ関係調査事業」報告書でも、海岸にある森林が乱伐で荒廃した後に漁獲が減少したが、森林を復元させたところ漁獲が増加したという各地の事例が述べられている。
魚つき林の漁業への効果
魚つき林によって魚が集まる理由については、経験的に「お林」のように海面に影を落として直射日光を妨げ、魚介類の生活環境が安定するからではないかと長く考えられていたが、科学的な研究は少なかった。
近年は、森林の落葉などによって形成された栄養分が水域へ流出することによる効果が重視されるようになった。この分野のパイオニア的研究者である松永勝彦氏の著書『「海の砂漠化」と森と人間』によると、森林の腐葉土から溶け出した光合成に不可欠なフルボ酸が水域に流入し、これが植物プランクトンを増やし、魚介類を育てるという効果を述べている。
三重県尾鷲湾の事例では、水力発電所が上流の湖水を発電した後に放水し、栄養分を補給しているので、海藻が育ち豊かな漁場になっている。また、宮城県の気仙沼湾では、大川が上流の森林で形成された栄養分を運び、湾内のプランクトンを増殖させていると紹介している。
恩賜財団済生会理事長 炭谷 茂