環境福祉学講座(172) 漁業の歴史からみる環境福祉(8) ニシン漁が築いた都市
小樽市のニシン漁の歴史
8月下旬、北海道の迫俊哉小樽市長を訪ね、懇談した。小樽市には、済生会は小樽病院を中核に重症心身障害児・者施設「みどりの里」、老人保健施設「はまなす」「訪問看護ステーション」「地域包括支援センター」などさまざまな医療、福祉事業を経営している。
さらに、北海道済生会支部は、近接する大型複合ショッピングセンターを経営する小樽ベイシティ開発と連携して、令和2年(2020年)には「小樽ウエルネスタウン構想」を策定し、小樽市住民の健康や福祉、生活の向上に貢献する取り組みを始めた。この構想にもとづき、住民の健康増進事業、発達障害支援事業所などを始めている。
これには、小樽市は済生会と連携協定を結び、保健所をショッピングセンターに移設するなど積極的に協力をしている。また、地元企業、経済産業省、日本財団なども参加し、希望に満ちたまちづくりに力強い歩みを進めている。
かつて、小樽市はニシン漁や港湾都市として栄え、北海道の商業・金融の中心であった。日銀支店等の銀行、商社、船舶会社等が進出した。しかし、ニシン漁の不漁や石炭需要の減少などから衰退の道を辿った。
『北海道の歴史』(榎本守恵著、北海道新聞社)によると、北海道では江戸時代初めにはニシン漁が行われている。江戸中期から明治時代にかけての150年間、北海道のニシンは日本人にタンパク質源を供給するとともに、養分が高い肥料になって農業を支えた。
明治維新後の北海道の主要産業は、ニシン漁を中心とする漁業であった。立網が使用され漁獲量が増加していく。
明治30年(1897年)には、北海道のニシン漁獲高は97万5千トンの最高記録となった。『ニシンの歴史』(キャシー・ハント著、龍和子訳、原書房)によると、1930年代後半には世界のニシンとその仲間の全漁獲量の50%は、日本、米国、カナダの3カ国で占められた。
しかし、北海道のニシン漁の繁栄は長くは続かなかった。右肩下がりで漁獲量は減少し、1957年にはニシンの魚群は北海道から消えていった。その原因として、『魚はどこに消えた?』(片野歩著、ウエッジ)では、乱獲や水温の変化、森林の伐採等が考えられるが、決定的な要因は乱獲であるとしている。
北海道のニシンは沿岸の海藻類や藻類に粘着卵を産み付けるので、漁船が待ち構えて文字通り一網打尽にニシンを捕獲することができた。漁獲制限を受けることなく毎年獲り続けたので、「ニシンが来なくなったのではなく、いなくなった」と片野は述べている。
ニシン漁が栄えた頃、小樽市は中心的な水揚地として繁栄した。ニシン漁は春告魚(はるつげうお)の異名があるように、3月から5月に産卵のために群来し漁期になる。この間、全国から出稼労働者が集まり、活況を呈する。短期間に大量の水揚げで財を成す者も生まれ、ニシン御殿も建てられた。小樽市はニシン漁によって築かれた都市である。
一方で、榎本が『北海道の歴史』で述べているが、ニシン漁業は「一起こし千両」と言われ、投機的な性格を有するため、昭和初期には道民性は「愛郷心・土着心が薄いこと、投機心が強いこと、隣保互助・公共心が不足」等の短所があると指摘された。これが今日まで存続していないだろうが、小樽市の発展にどのように影響を与えてきたのだろうか。
ニシン漁で繁栄した都市の再興
世界には小樽市と同じように、ニシン漁で築かれた都市がある。ニシン漁は巨大な富を生むからである。このために、ニシン漁を巡って戦争まで起こっている。
オランダ漁船が1540年に北海のイングランド沿岸部でニシンの漁場を発見したことをきっかけに、大量の漁船が建造され、ニシン漁に乗り出した。これによって築かれた富は、16世紀末にはオランダを世界の最富裕国に押し上げ、世界の覇者となった。
12世紀から漁村として存在したアムステルダムは、ニシン漁の根拠地となって発展した。ハントが『ニシンの歴史』のなかで述べているように、アムステルダムはニシンの骨の上に建設された都市である。
アムステルダムはニシン漁で築いた富を生かし、時代の変化に順応しながら世界の経済都市の地位を維持している。そのほか、デンマークのコペンハーゲン、英国のグレートヤーマスなどもニシン漁によって築かれた都市であるが、今日も繁栄を続けている。
北海道有数の都市として繁栄した小樽市は、ニシン漁の衰退とともに経済力を失っていった。人口が多い時は20万人を超えたが、令和6年(2024年)には10万5千人と半分になり、高齢化率は40%を超えた。
しかし、世界に模範例があるように、小樽市は大きく発展する力を秘めている。済生会が進める「小樽ウエルネスタウン構想」は、小樽市の発展に貢献できると確信している。
恩賜財団済生会理事長 炭谷 茂