環境福祉学講座(165) 漁業の歴史からみる環境福祉(1) 能登半島の漁業被害と環境福祉
漁業と環境福祉の関係
これまで農業、林業と第1次産業分野を環境福祉の見地から考察してきたが、今回から漁業について考えることにしたい。
漁撈は人間の歴史と同じ程度に古い。日本の旧石器時代には漁撈生活が行われていた痕跡は発見されていないが、縄文文化では狩猟や果実の採集とともに漁撈を行い、食料としていた。これに用いた釣り針、銛、やす、土錘、石錘などが遺跡から発掘されている。水稲農業が始まった弥生時代には漁撈、狩猟、採集も併存して行われていた。
このように漁撈は人間の生存を支えた。自宅近くの東京都目黒区に東山貝塚遺跡がある。目黒区のホームページに詳細に紹介されているが、東京市時代には港区の丸山貝塚や北区の西ヶ原貝塚とともに三大貝塚と称され、日本の人類学の祖と言われた坪井正五郎によって明治中期に発掘された。クロダイ、アジ、フグなどの魚類の骨、ハマグリ、アサリなどの貝殻が発見されている。
現在の東山貝塚は東京湾から5キロ以上も離れているが、貝塚が作られた当時は現在の目黒川が東京湾の入り江になり、海水が入ってきた。5千年前の人にとって漁撈が生命維持のために不可欠だった。
その後ムラが作られ、身分社会が形成されてきたが、漁業は広く行われるようになった。近世に至るまでは誰も漁業は制限を受けることなく、公の共有のものとして利用され、人々の生活を支えた。701年の大宝律令にも「山川藪沢の利は、公私これを共にす」と規定されていた。今日言われるコモンズの考え方と共通する。
漁業は環境の直接的な影響を受ける産業である。海や川の変化に応じ収穫量や内容が左右される。最近は地球温暖化の影響を受けて日本の漁獲量に変化が起きている。私の出身地の富山県の氷見市は、寒ブリの名産として知られてきたが、近年激減している。各地でイワシ、サンマ、サケの不漁が伝えられている。代わって北海道でブリ、福島県でトラフグの水揚げが増加している。
このように漁業は古来から環境と福祉に強い関係を有してきた産業と言えるので、環境福祉学からの考察は大変有益である。
能登半島地震の漁業被害
令和6年(2024年)元旦に発生した能登半島地震は年明け早々だっただけに国民を驚かせた。被害状況が時間の経過につれ、甚大だったことが明らかになる。私は隣接する富山県高岡市に大学入学まで暮らしていたので、能登について親しみを感じている。
能登と富山県の西部地域とは経済・生活圏が重なる。明治4年(1871年)の廃藩置県では七尾県が作られたが、能登と富山県の一部で形成された。中学校の同窓会の名簿でも現在の能登に暮らす人が混じる。
私の家は家具販売を営んでいたが、仕入先は石川県七尾市の田鶴浜町であった。小さい頃商談に行く母に連れられて同町を訪れたことがある。町全体に木の香りが漂い、木材産業の町らしかった。これらの地域も地震によって大きな被害を受けている。
能登半島は三面を海で囲まれているが、陸上は平野が乏しく、山は浅いが、丘陵地が多い。このため、金沢等の内陸部からの交通が困難になっている。これが能登半島の経済や生活のインフラ整備に大きな障害になってきた。今回外部から医療や物資の支援が円滑にできなかったのもこのためである。
漁業は昔から能登の主要産業であった。能登半島の東側と西側とは海に関係する人の営みに大きな違いがあった。
矢ケ崎孝雄の『能登半島の海と人』(歴史地理学紀要第13巻)によると、西側は日本海に面する外浦と称される。日本海の荒海に面し、山が海に迫っている。断崖絶壁の形状で、能登金剛、猿山岬、曽々木等の景勝地で代表的な観光地であるが、沿岸漁業には適していなかった。このため、沖合の日本海の大和堆に海の幸を求める漁業が発展した。輪島港、福浦港、今浜港が出漁基地となった。
東側は内浦と称され、外浦と対照的である。富山湾に臨み、南北の海流が流れ込み、前述の氷見と同様にブリ漁が盛んである。海岸は砂浜や小河川の河口に発達した三角州があり、穏やかな地形である。七尾湾ではカキやノリの養殖が行われている。
今回の地震では漁業に対する被害が甚大だった。69漁港のうち60港で岸壁や防波堤などが損壊した。輪島市の鹿磯漁港では4メートルも隆起し、海岸線は100~200メートルほど沖合に後退した。このほか、漁船が200隻以上も転覆、沈没、座礁などの被害を受けた。
地震は最大の環境被害と言える。漁業従事者は高齢化が進んでいるので、どのように復興できるか前途は難題が多い。
恩賜財団済生会理事長 富山国際大学客員教授 炭谷 茂
