見えざる脅威に挑む―秋田県男鹿市圧送管事故の教訓と下水道事業の未来
~酸素欠乏・硫化水素中毒事故を二度と繰り返さないために~
秋田県建設部下水道マネジメント推進課課長 熊谷聡
1.秋田県下水道の歩みと特徴
1・1 秋田県流域下水道の特性
本県の流域下水道事業は、1973年の事業着手から半世紀を経て整備が進められ、95年には計画された全5処理区の供用が開始されました。
このインフラストックは、全国的に見ても顕著な特徴を有しており、それは「圧送管(圧力式)」の比率が極めて高い点にあります。2022年度の下水道統計によると、県管理の管路総延長約323キロメートルに対し、圧送管は約139キロメートルと、その比率は約43%に達します。これは、広大な県土において汚水を効率的に移送するためにポンプ圧送が多用された結果ですが、この「高い圧送管比率」が、維持管理段階において看過できない重大なリスク要因となっています。
1・2 現代社会を支える「見えない」基盤の脆弱性
日本の下水道管路は、総延長約50万キロメートルに達し、その多くが今、更新時期を迎えています。これにより私たち管理者は「建設」から「維持管理・更新」へと事業の舵を切る変革期に立たされています。
そのような過渡期において、決して起こしてはならない事故が発生しました。25年3月7日、秋田県男鹿市の管路補修工事現場において、作業員3名の尊い命が失われました。本県の特徴である「圧送管路」であること、そして長期間の供用停止後という特殊な環境下で発生した本事故は、従来の安全管理やリスク認識の盲点を鋭く突くものでした。
1・3 本稿の目的
本稿の目的は、この事故の詳細な原因とそれに基づく具体的な再発防止策を報告し、全国の下水道事業者が共有すべき「安全最優先」の管路マネジメントについて提言することにあります。これは単なる事故の経過報告ではありません。全ての現場作業員の尊い命を守り、そして下水道事業の責務を次世代へと確実に引き継ぐための、秋田県から全国に向けた切実で、最も重要なメッセージです。
2.男鹿市下水道管路事故の全貌と経過
2・1 事故現場の施設特性
事故は、秋田湾・雄物川流域下水道臨海処理区を構成する主要管路、臨海幹線で発生しました。現場は男鹿市内のポンプ場から圧送する延長約4・4キロメートルの区間です(図1)。この区間は、平成初期に敷設された1条管に加え、後に複線化された2条管が並走する構造となっています。
圧送管路の特性として、ポンプ稼働時に管内が満水(圧力)状態となり、空気の出入りが極めて制限される完全な閉鎖空間となります。この特殊な管路特性こそが、後に明らかとなる悲劇的な事故を引き起こす、構造的な伏線となりました。
2・2 事故に至る経緯と当日の悲劇
発端は24年8月、1条管からの漏水が発見されたことにあります。県は直ちに当該管への送水を停止・排水し、並列する2条管のみでの運転に切り替えました。この措置により、事故発生現場となる1条管の内部は、補修完了までの約半年間にわたり、管内に付着した汚水や汚泥と接触した空気が充満することになりました。この空気の存在が事故環境を決定付ける要因になったと考えられます(図2、3)。
事故は、25年3月7日、補修後の「通水試験」を実施している最中に起きました(表1、2)。この事故で、作業員A(40代)、B(60代)、C(20代)の3名の尊い命が失われました。年齢も役割も異なる彼らが、一瞬にして命を奪われた事実は、この事故が単純な個人の不注意ではなく、従来の安全対策の死角に潜んでいた、不可避に近い複数のリスク事象が重なった事例と考えられます。
3.見えざる脅威の正体―事故メカニズムの科学的検証
なぜ、半年間停止していた管路に水を流しただけで、離れたマンホールにいた作業員が死亡したのか。
3・1 「死の空気」の醸成と噴出
今回の事故における最大の要因は、「長期間の送水停止」によって引き起こされた管内環境の劇的な変化にあります。
約半年間空となった1条管内にわずかに残った汚水・汚泥中の有機物は、密閉された管内での分解が進む過程で酸素を消費し尽くし(嫌気化)、管内の酸素濃度は低い状態となりました。同時に、嫌気状態下で硫酸塩還元細菌が活発に活動し、硫化水素(H2S)が蓄積されました。
事故は、補修後の通水試験時に、流入した汚水によって圧縮され、押し出されたこれらの「死の空気」が、制水弁の微細な隙間から一気に噴出し、室内を作業員にとって即座に致命的な環境に変えたことによって引き起こされたと考えられます。
3・2 酸素欠乏と硫化水素の複合作用
現場では高濃度の硫化水素も検知されましたが、検討委員会は「酸素欠乏が主な要因である可能性が高い」と結論付けました。酸素濃度が数%以下の空気は、人間が一呼吸しただけで瞬時に昏倒させる致命的な危険性を持ちます。容積がわずか2・2立方メートルと狭小であった制水弁室においては、噴出した有毒ガスによって室内の空気が瞬時に置換されました。この結果、作業員は危険を感知し逃げる間もなく、一瞬で意識を喪失し、命を落とされたものと推測されます。
4.安全対策検討委員会による原因分析と提言
事故発生後、県は速やかに安全対策検討委員会を設置し、25年7月に提言書を取りまとめました。ここでは、単なる手順ミスに留まらず、事故原因を構造的要因にまで深く掘り下げて分析しました。
4・1 5つの観点からの深層分析
委員会では、以下の5つの観点から複合的な要因を特定しました。
①有毒ガスの発生
長期間の空気滞留による化学的変質が根本原因です。「圧送管の硫化水素リスク」は広く周知されていましたが、今回の事故を引き起こした「酸素欠乏リスク」に対する認識は極めて希薄でした。
②受注者の安全管理
作業主任者が選任されておらず、通水試験中の濃度測定、換気措置、救出用具の準備が決定的に不足していました。
③発注者の監督体制
仕様書には法令遵守は謳われていたものの、「圧送管再稼働」という特殊かつ高リスクの作業に対する具体的なリスク明示や手順指導が不十分でした。
④施工手順
通水試験の実施時に作業員を退避させ、立入禁止措置を講じていれば、本事故は確実に防げた事故でした。
⑤圧送管路の構造・運用
事故現場の制水弁室が狭小であったこと、また長距離圧送管における通水試験手順自体が確立されていなかったことが、構造的な背景として挙げられます。
4・2 提言の核心:未知のリスクへの対応
提言において最も強調されたのは、「圧送管路に内在する新たな危険性への対応」です。圧送管は「ポンプ運転により遠方から致死性ガスが移動してくる」という特有のリスクを抱えています。作業前のガス濃度測定が正常値であっても、通水開始の瞬間に状況が一変する「時間差の危険」こそ、全国の事業者が直ちに共有すべき新たな知見であると提言されました。
5.再発防止への断行―仕様書の抜本改正
検討委員会の提言を受け、秋田県は同様の悲劇を二度と繰り返さないため、直ちに「土木工事特記仕様書」等の抜本的な改正を行いました。
5・1 安全管理の厳格化
本改正では、下水道施設に限定せず、暗渠やその他の閉鎖空間を有する全ての土木構造物に拡大し関連規定を抜本的に強化しました。
・酸素欠乏・硫化水素対策
作業主任者選任、測定、換気の徹底。
・計画書の充実
施工計画書への安全管理計画(リスクアセスメント)記載の義務化。
・条件明示
発注者が現場固有のリスク(長期滞留の有無等)を現場説明書で明示する規定。
5・2 圧送管路の試験手順確立
県は、長期停止後の再稼働における標準作業フロー(SOP)を新たに策定しました。その核心は、「通水試験中は管路内及び関連する密閉空間に人がいない状態を作る」ことです。「漏水を現場で目視確認したい」という技術者としての心理や過去の慣習を排し、安全最優先の作業手順を仕様書に明文化し、これを全ての作業に厳格に適用することを規定しました(図4)。
6.国が示す道標―「第2次提言」と全国的動向
25年5月、国土交通省は、埼玉県八潮市の道路陥没事故と本県の圧送管路事故を受け、「国民とともに守る基礎インフラ上下水道のあり方(第2次提言)」を公表しました。
6・1 安全性優先の管路マネジメント
提言では、日本の下水道管路が現在「極めて過酷な状況」にあるとし、特にシステム全体におけるリダンダンシー(冗長性)の欠如を指摘しています。今後は、化学的・力学的「ハザード」とそれが引き起こす社会的影響度を掛け合わせ、リスクに応じたメリハリのある優先順位付けと管理が求められています。
6・2 共通する教訓
両事故に共通する構造的な教訓は「老朽化」と、それに伴う「硫化水素等の化学的腐食」です。硫化水素対策は、単に施設の長寿命化を図るだけでなく、作業員の人命保護という観点から、最優先で取り組むべき課題であると、改めて再認識する必要があります。
7.現場からの変革―テクノロジーと人づくり
現代において、下水道事業は深刻な人手不足に直面しており、安全を「人の注意」や「経験」だけに頼る従来型の管理手法には限界があります。
7・1 スマートメンテナンス(DX)の導入
秋田県では、提言を踏まえ、特に高リスクな危険作業における「無人化・省力化」の導入を積極的に検討し、実践に移していきます。導入策の例を以下に示します。
・ドローン・ロボット
地下空間での自律調査により、人の立ち入りを減らす。
・ICT/IoTセンシング
管内の水位やガス濃度を常時遠隔監視する。
・AI劣化予測
データを活用し、リスク箇所を特定して効率的な点検を行う。
7・2 組織を越えた「人の群マネ」
深刻化する技術者不足の状況下では、個々の組織の能力に依存するだけでは安全確保は困難です。組織の壁を越えた「人の群マネジメント」が不可欠となります。発注者と受注者がリスクを対等に共有し、互いに安全上の指摘を遠慮なく行える協力関係の構築、そして広域的な連携による確実な技術継承が喫緊の課題です。
8.結言:悲劇を未来の安全への礎に
秋田県男鹿市で発生した事故は、決して想定外の事態ではありませんでした。「圧送管」「長期間停止」「再稼働」という条件が揃えば、全国どこでも起こりうる必然の事故であったと総括しました。
亡くなられた3名の作業員の尊い命を無にしないための唯一の方法は、この教訓を深く理解し、現場のルールと安全意識を根本から変え、二度と同じ悲劇を生まないことです。
全国の下水道事業者の皆様へ
貴職の管轄に、長期間停止している圧送管は存在しませんか? その再稼働手順書は、「酸素欠乏空気の噴出」という新たなリスクを明確に想定していますか? 現場の作業員は「酸素欠乏」の真の恐怖を知っていますか? そして私たち発注者は、工期や予算の制約によって安全対策を妥協させてはいませんか?
「安全な下水道管路作業のために」
私たちは、この言葉を単なるスローガンで終わらせず、具体的な行動と、必要な投資に結び付けることこそが、今、下水道事業に携わる全ての人間に課せられた最大の責務であると考えます。秋田県は、この痛恨の事故を原点とし、不退転の決意をもって、安全対策に取り組んでまいります。
※編集部注:本稿は『月刊下水道』2026年2月号に掲載された論文を図など一部割愛し転載したものです。