環境福祉学講座(148) 林業の歴史からみる環境福祉(1) 森林が人間の営みの基盤
樹木に対する関心
私の名前から推測できるように、私の生家は建具商という木材関係の仕事を生業にしていた。父の実家は材木商であった。
「炭谷」という姓は、祖先が山で仕事をしていたのではと推測させる。「茂」という名は、樹木が育つという意味を込めて名付けられた。兄弟の名も「秀樹」「紀子」(木の国紀州から)、「柾子」(板の柾目から)という凝りようである。
幼い頃は、能登半島にある木材加工業が盛んな旧田鶴浜町へ母と一緒に出掛けた記憶がある。町に木の香りが漂っていた。終戦後で空襲によって焼失した家屋の建設需要の高まりで活気があった。
このような生い立ちで、樹木に対する関心を持っていた。その後、福井県で自然保護の仕事に従事した時は、体系的に森林について勉強を始めた。当時の環境庁が自然保護担当課長研修を2週間程度の日程で行った。
公務員時代に、人事院主催の3カ月にも及ぶ国家公務員係長研修をはじめ、いくつかの研修を受けたが、何を学んだのか記憶に残っていないし、その後の仕事に役立つことはなかった。それに対して自然保護担当課長研修は有益で、その後の仕事の基礎になった。森林について宮脇昭先生(当時、横浜国大教授)は、ドイツで発展した森林管理手法について情熱的に説明されたのを今でもはっきりと記憶している。
現在は散歩をしながら、公園や街路樹、人家の庭先などの樹木を眺めることが好きだ。しかし、樹木の名前を当てることは自信がない。サルスベリやマテバシイのように特色があればよいが、似たような樹木は分からず、樹形や葉を記憶して図鑑に当たり、図鑑の余白に観察した場所を記載している。知識が増えれば増えるほど樹木について興味が増している。
森林が人間の生活を支える
縄文時代以来、日本では食料や住居をはじめ、生活に必要な物は森林から得ていた。日本人と森林は切り離せない関係である。梶原幹弘著『究極の森林』(京都大学学術出版会)によると(本稿では同書によるところが大きい)、縄文時代は、住居をカシ、クリ、スギ等で作っていた。住居の周りには広葉樹林に恵まれていたので、木材の入手に困ることがなかった。
弥生時代にも住居、食器、農具等の材料や燃料のために大量の樹木が伐採されたが、気候条件に恵まれた日本では森林の回復が早く、木材不足にならなかった。
しかし、大和時代に入ると、農地開発のために森林の伐採が進む一方、都の造営や寺社の建築のために膨大な木材が必要になったため、大和の森林が壊滅的な状態となった。遷都が繰り返し行われた理由の一つに、周辺からの木材供給が困難になったこともある。
奈良時代、平安時代になっても、都の造営や大仏殿の建設をはじめ数多くの寺社の建築が行われたため、大量の木材需要が生じ、森林の乱伐が起こった。
現在でも自然の恵みは無尽蔵であると思う人がいるが、限界があることが真実である。森林資源の枯渇が政治や経済に大きな影響を及ぼす。例えば、遣唐使の派遣には2隻ないし4隻の大型船を建造しなければならない。このために大量の木材の調達が必要であったので、この制約が遣唐使廃止に繋がる要因の一つになったのではと推論している。
そこで、森林の成育を自然任せでなく、寺院の建築用木材の確保のため、平安時代半ば頃には植林が実施されたと記録されている。また、美観保護、水流管理、狩場管理等のため伐採が禁止される区域もあった。
鎌倉、室町時代に入ると、さらに鎌倉幕府の造営、多数の寺社の建設などに木材需要が生まれたが、用材は広域から集められた。現在鎌倉市にある材木座海岸の地名は、当時木材取引を扱った同業組合である材木座があったことに由来する。室町時代末期には奈良の吉野でスギなどの森林造成が行われている。
森林の多機能への関心
現在各地に著名な山林が存在する。3大美林として青森のヒバ、秋田のスギ、木曽のヒノキがある。これらは江戸時代に津軽藩、秋田藩、尾張藩の各藩が収入を確保するために造成したものである。
江戸時代になって、乱伐による山林破壊をするのではなく、計画的長期的な視点に立って伐採と植林を行い、山林管理することが各藩で採用されている。現在林業地として残る静岡県天竜、京都市北山、大分県日田等は、江戸時代に始められた先見的な森林管理のお陰である。林業経営の見地だけでなく、崩壊防止、水源涵養、景観維持、レクリエーション利用など、森林の多様な機能に着目され始めた。エコロジーや環境福祉学の視点が登場するのが江戸時代である。
これを理論的に唱えたのは陽明学者の熊沢蕃山であった。蕃山の思想は環境福祉学にも通じるものがある。これについては次回に述べたい。
恩賜財団済生会理事長 富山国際大学客員教授 炭谷 茂
