環境福祉学講座(152)

明治神宮の森の造営

明治神宮の森の造営は、歴史的に稀有な成功事例である。

明治天皇が明治45年(1912年)7月30日に崩御すると、明治天皇の墓所を東京にという声が上がったが、明治天皇の遺志により京都伏見に天皇陵を設けることが決定済みであった。

ちなみに、前回述べたように済生会は明治天皇によって設立され、設立100周年は2011年5月30日に該当した。その時理事長の私は翌月、墓所を管理する宮内庁の現地事務所に案内していただき、伏見桃山御陵を参拝し、済生会が100周年を迎えたことを報告した。

そこで、御陵の代わりに「明治天皇のご聖徳を偲ぶ神宮の造営を」という声が上がった。翌年12月に「神社奉祀調査会」が組織され、建築、林業、造園、法律、文学等の専門家が招集された。この中で注目されるのは、ドイツで最新の林学を修め博士号を取得した本多静六が加わったことである。

神社の候補地は全国各地から誘致運動があったが、大正4年(1915年)に皇居に近く風致が優れ、皇室御料地と陸軍省の練兵場等として使用されていた現在地が選ばれた。神社造営のため内務省所管の明治神宮造営局が設置された。

明治神宮は内苑と外苑からなるが、内苑は明治神宮造営局が国費によって直接造営を行う一方、外苑は民間からなる明治神宮奉賛会から委嘱を受ける形で、明治神宮造営局が国民の寄付金によって整備することとなった。内苑は社殿と森からなり、総面積72・2㌶、東京ドームの約15倍である。外苑は27・3㌶である。

森の設計は本多静六が中心になって進められた。現在では明治神宮の森と一般に称されているが、環境的に見て世界に誇るべき優れた点がいくつかある。

第1の特色は、人工的に大都市で造営された森であることだ。パリ、ベルリン、ニューヨークなど大都市にも森が存在しているが、いずれも元々天然林が存在し、それが核になって今日の森を形成している。

これに対し、明治神宮の森が存在する場所は既存の樹林地がわずかで、9割近くが草原や畑地であって森林の生育に適さなかった。また、近くに鉄道が走り、煙害が酷く、スギ、ヒノキなど針葉樹林が枯死していた。このような条件の悪い場所に森を新たに作り出したのである。

第2の特色は、最新の科学的知見に基づき計画し、実行されたことだ。

明治神宮の森を人工的に作るため林学、農学、造園等の専門家が参加した。この中心的役割を担った本多静六は、ドイツで学んだ植生遷移と潜在植生の考え方を基本に、自然の力によって世代交代を繰り返すことで森を作ることを目指した。

そのため、潜在植生であるカシ、シイ、クスなどの常緑広葉樹を中心に、マツ、ヒノキ、サワラなどの針葉樹、落葉広葉樹を加えた混合林の森を最終的な形とし、年代経過ごとの林相の遷移を予測した。

これに対して政治的影響力のあった大隈重信は、伊勢神宮のようなスギだけの森が神社林としてふさわしいと主張したが、本多ら科学者は、スギは育たないことなどを科学的に説明し説得した。今日の明治神宮の森が本多たちの予測した通りに形成されていることは、科学者の先見力を実証している。

国民の森づくりへの参加

第3の特色は、明治神宮の森づくりに数多くの国民が参加したことである。

樹木の購入予算は計上されず、国民の献木による方針が取られた。全国から9万5千本の木が集まった。種類としてはマツ、ヒノキ、サワラ、カシ、シイ、イヌツゲ、サカキなどであった。花実をつける観賞用樹木や果樹は受け付けないことにした。

また、全国の青年団から延べ11万人の勤労奉仕体が、社殿、参道、池などの土木工事には加わっている。

外苑については、前述のように資金面を含め全面的に国民の力によって整備された。必要費用は670万円と見込まれたが、外地や在外邦人を含め全国からの寄付金で賄うことができた。

外苑の整備についても全国から勤労奉仕団が参加した。また、大量の献木も行われた。この結果、外苑は緑に囲まれた野球場、陸上競技場、プール等のスポーツ施設ができ上がった。戦後進駐軍に接収された際に樹林の一部が切り開かれたため、緑は減少した。

現在、外苑地区の再開発計画が進められ、先日事業者から環境アセスメントの評価書が提出され、都が認可すれば着工される運びである。この計画を巡っては樹木の伐採や枯死など自然への影響を懸念して反対論が根強いが、前述した明治神宮の森の創設時の精神と同じように、都民がこの計画に積極的な参加し、科学的知見に基づき大都市に豊かな自然を創出する方向を目指して欲しいものだ。

 恩賜財団済生会理事長・富山国際大学客員教授 炭谷 茂

環境福祉学講座(152) 恩賜財団済生会理事長・富山国際大学客員教授 炭谷 茂_恩賜財団済生会理事長/富山国際大学客員教授 炭谷茂
恩賜財団済生会理事長/富山国際大学客員教授 炭谷茂