5月15日の本土復帰50周年を控えて、マスメディアで沖縄関連の話題が多くなっている。 50年前の1972年のこの日を境に一気に同県のさまざまなルールが日本基準に戻り、左側通行になったことで、廃棄物の収集運搬も苦労したのではなろうか▼一般廃棄物の中間処理もそれまでは野焼きで那覇市をはじめほとんどの市町村は海岸に穴を掘り焼却処理していたという。当時、本土にも一廃を野焼きしていたところが多少あったかもしれないが、県内のほとんどの市町村で野焼きをしていたとは、アメリカ統治下の影響があったと思われる▼さて、同県の中間処理施設だが、67年に那覇市に日量50トンのコンポスト施設が稼働し、69年に同市に焼却炉(同3トン)が完成、続けて返還1カ月前の72年4月に18時間運転の80トン炉が完成し、野焼きが解消されたという▼ただ、沖縄国際海洋博が開催された75年以降には同市の人口が30万人に近づき、一般廃棄物の発生量が日量300トンに増大、3つの中間処理施設の許容範囲を超え、やむを得ず埋立処分をしていたらしい▼こうした経験を経て、同市を含めたその他の市町村で本土同様に中間処理施設が整備され現在に至る。 50年前と比較したら同県の廃棄物処理は変わった。 (平) |